写真展「one」が開催中だった小林透さんと、小社代表 姫野希美のトークイベントが、先月2月1日(土)に水戸のキワマリ荘にて催されました。
(不定期シリーズ「よんでみる」その6 /モデレーター・本展企画 松本美枝子さん(写真家))
家族であり、小さい頃からかわいく一緒にいた弟と、ある日帰宅すると躁状態にあり、裸でぴょんぴょん跳びはねながらそれまでに見たことのない様相を見せていた弟。
目の前のことからズレるという力にはじまる小林透さんの写真とお話は、それが社会に差し出されたときに、「同意のとれていない自閉症の被写体」という線引きを受けること、また弱者という形になぞられ、写真倫理を問われることなどに繰り返し行き当ってきたことを今一度たどりながら、しかし人々があらたに息をするキワマリ荘の会場へと展開していきました。
弟は家族といるよりも施設で暮らして社会に受け入れられていく方が幸せー
施設の方からそうはっきり言われたとも語る一方で、
小林透さん自身にはこれまでの撮影行為や関係性の積み重ねで得てきた「撮ることでは、弟は僕から離れていかない」という確信があるなど、その写真とお話は、弟という存在の圧倒的な立ち上がりをともないながら、いくつものズレの間を繰り返し往復し、論破ではなく、可能性を駆け巡る運動体のように、会場に大きな問いの器を拡げました。
トーク後の質疑応答では 「否定的で悲しい気持ちになった。でも信頼関係があるのもわかった。なぜ最初に撮ったのですか」という最初のズレに立ち返ろうとする投げかけをくださる方や、 弟さんのわからない思いを推測しながら音声意志伝達装置(トーキングエイド)でご質問ご感想をくださった方もいらっしゃいました。
いつまで撮り続けるんですかと聞いたとき「死ぬまで撮り続ける」と作家が言った、その一冊目を作るための、問いや矛盾や覚悟。赤々舎にとってもそれらを往復する最初の場になったようにおもいます。
写真を撮ること自体が搾取でもあるなら、それを負って何を渡すのか。
写真の問いにひっぱられ、作家だけではなく、いらしてくださったお客さんまでも、わからなさに突き進んで身をもって考えた2時間であり、そうした痕跡に対する問いや、往復に、私達の場所がそのままあるなら、本が開かれる場所とはそういうところでもあるのかもしれません。
「そうじゃない」ということを見せながら、向ってくる人がいるというのを拡がりの可能性として、小林徹さんの写真がまた次に差し出される場所を、息をのんで(ーそして息をはく、その間の往復のひとつの続きに)どうぞお待ちください。
(椿)