【After 3・11】産經新聞に黒田光一が寄稿。

10月12日の産經新聞朝刊の【After 3・11】のコーナーに写真集『弾道学』の黒田光一さんが寄稿しました。

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行き場のない塵のような    福島県相馬市

 いまも、膨大に撮られ続ける「写真」という、その大半が行き場のない塵(ちり)のようなものたち。
例えば個人や報道を含めて3月以降に撮られてきた被災地の写真があり、
一方に「被災地でカメラを向けて写真作品なんて撮れない」と口にする写真家が撮る"そうでない場所"の写真も日々増殖する。
しかしそのいずれも、やはりこの2011年にあっては同根のはずであって、
その身がどこにあっても撮るということは土壇場、崖っぷちのはずだ。

 あれからすべて何もかもが変わったわけじゃない。3月以前と3月以後は分断などしていない。東京、福島も地続きだ。
 こうしているうちにも15分に1人がどこかで自死してゆく国に自分たちはしばらく生きている。
だがそんな状況が突然あらわれるわけもなく、これまでの自分たちの振る舞いに呼応して始まり進んできたはずだ。

 写真が目指すものは何か。簡単に言葉にはならない。
人目を引くためのゲームや論理の遊びなら、得意な人間に任せておけばいい。
記録、現実の複写...、その通りだろう。
ただ、現実の追認を超えられないという写真の本質に甘んじるなら、自分がやり続けていく意味はない。

 あらゆる表現(会話や行動も)は、個人の思惑とは関係なく、
その時々の流れにおいてそれ自体が動いていく方向に、手を離せば向かっていく特質を持っている。
写真もそうだ。その時点にしかあり得ないある兆候を孕(はら)みながら動きつつ、
何か得体(えたい)の知れない、"写真"ではないものに変質していく。
その実体を手にしたいがために、塵を集める。


黒田 光一

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111012/dst11101207330000-n1.htm


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© 2011 Koichi Kuroda