1月18日の産經新聞朝刊の「After 3・11」のコーナーに写真集『浅田家』や『NEW LIFE』の浅田政志さんが写真と文章を寄稿しました。
このカメラたちの代わりに
宮城県気仙沼市の海岸線からほど近いところに、以前は体育館だった建物があって、震災後に地元の人の熱意によって立ち上げられた"写真救済プロジェクト"の拠点となっている。
©Masashi Asada
このカメラたちの代わりに
宮城県気仙沼市の海岸線からほど近いところに、以前は体育館だった建物があって、震災後に地元の人の熱意によって立ち上げられた"写真救済プロジェクト"の拠点となっている。
3カ月前にこの場所を訪れたとき、静かなその建物の2階で、僕は持ち主を待つカメラが並んでいるところを撮影した。
ブルーシートの上に集められている被災したカメラやビデオカメラは、泥を落とされて元のように黒光りしている。ちょうど西日があたっていて、青と黒の強いコントラストに僕は思わず見入ってしまっていた。
ほとんどのカメラは、本体の中まで浸水しているはずだ。いくらきれいにしても、多分動かないだろうに...。そんなことを、見た瞬間に感じたような気がする。
だけど、カメラのまわりにならんでいるものを見て、少し気持ちが変わった。受賞メダル、メッセージ入りのボール、土産物らしいこけし...。
このカメラ一台一台にも、それぞれ持ち主がいたのだ。写真は、記憶を思い出させてくれる大切な媒体であることは間違いない。そして、沢山(たくさん)の瞬 間を記録してきた機械そのものにも同じくらい大切な記憶が宿っている。だからこそ、あちこちで拾われたカメラはこの場所に集められ、人々の思いやりによっ て、泥を落とされて、今こうやって目の前にあるのだ。
僕はこの場所を訪れる度に、頬を強く殴られたようにハッと目が覚める思いをする。
この原稿が掲載されるころ、僕は3カ月ぶりに東北の地を歩いているはずだ。いまだに日常が戻ることのない土地で、自分には一体何ができるだろうか。もしこのカメラたちの代わりに記録できることがあるならば、それは一体どんなことなのだろうか。
©Masashi Asada