「Time LightBox」志賀理江子についての記事掲載

米国「TIME」誌、web版「LightBox」のコーナーで
志賀理江子さんについての記事が掲載されました。
タイトルは「Dreamscapes: The Fantastical Photographs of Lieko Shiga」で
書き手はロンドン在住の写真家・ライターのMarco Bohrさんです。
原文は英語ですので、拙いですが翻訳してみました。

原文はこちらよりお読みいただけます。→http://lightbox.time.com/2013/05/07/dreamscapes-the-fantastical-photographs-of-lieko-shiga/#1

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昔からの言い回しである「鉱山のカナリア」―――(ガスが発生するなどの)問題を早期発見してくれるシンボルとしての小鳥―――は知らなかったかもしれない何かを示してくれる存在だ。昔の鉱山のカナリアが人間が感知できないガスや煙霧を労働者たちに知らせてくれたように、カメラは暴かれなかった、発見されなかったであろう瞬間を捉えることができる。現在、アムステルダムの写真美術館FOAM(Fotografiemuseum Amsterdam FOAM)で開催中の日本人作家・志賀理江子による「CANARY」は、すぐにはわからないし、簡単には理解できないが、それでも意味を持つイメージでもって、強烈なメタファーを示している。

アムステルダムでの展示は2007年に出版された写真集のシリーズ「CANARY」で構成されている(この写真集は写真集コレクターの中では重要な一冊となっている)。「CANARY」に含まれる多くのイメージは非常にファンタジーに溢れ、シュールレアリスムにとても近いものに思う。たとえば、不思議な青色の光に包まれた部屋にあるとても大きな動物の頭蓋骨、宙で燃えている火の玉、ベッドに横たわる上半身裸の男の上で浮かんでいる女性といったものがある。精巧でとても目を引く夢の中の景色をもつ写真のその効果は、光と色の相互作用の力によって達成されている。また、作品の大部分は作家によって操作されている(いじられている)。ただし、アナログな手段によってである。暗室でもたらされる効果もある一方、写真のネガに引っ掻き傷をつけたりするのだ。この「操作」は作品によって程度が変わる。志賀は「私はいつも被写体に近づけるように、それぞれにあったやり方を試している」と言っている。他の言葉に言い換えると、写真家の手段、方法はイメージの被写体以外のものからはもたらされることはないのだ。

おそらく「CANARY」のイメージの多くが夜や暗いところ、室内といった場所でつくられているからかもしれないが、作品は動揺を誘うがつかみどころのないオーラをまとい、そしてそれを発している。他者の個人的で強烈な夢のような光景によろめく観覧者・読み手の感覚は、被写体のアイデンティティが姿を変えた写真の中でいっそうさらに強められる。

たとえば「レストラン スタージ」では、レストランのインテリアの細かいところは、幽霊のように黒いもので影となった頭の女性の不気味な存在の前では、視野に入らなくなる。この写真は女性にとってすこし思い出せるような夢の感覚があるのだ。夢を見る者(彼女)は夢にかたちを与えようと試みる。レストランのテーブル番号を思い出そうとするかもしれない。だが、やはり彼女のディナー同席者の顔さえもかたちづけることが出来ないのだ。

志賀の作品は内藤正敏のモノクロ写真を強く連想させる。内藤の代表作「遠野物語」(1983)では、内藤は、神秘主義や霊的なもの、日本の民俗学の複雑な関係性に、夜の風景やポートレート写真で迫った。写真のネガやプリントをいじってではあるが、志賀は人間の身体がもつ固有の弱さに迫っている。恐れずに言うならば、いわば、志賀の想像力において、身体の感覚(法則)の結果として被写体の多くは崩れたり、虚脱し、もしくは埋没してしまうのだ。

身体についての強調はおそらく彼女がダンサーであった経験に関係しているのかもしれない(ダンスは写真を独学でやる前にしていたことだ)。認識できる身体的な世界を表現したりドキュメントするよりもむしろ、志賀は感情的で精神的に複雑な身体の奥深くにある風景を構成する手段として写真を使っているのだ。