こんばんは。赤々舎代表の姫野です。ほんとに長くブログを書いてなかったんですが、どうもツイッターに違和感があるのと、言葉は書いていかなければ遠ざかる気がして、少しずつ再開したいと思いました。
とはいえ、もちろん小社のブログにも日々の情報は載っていて、その中で、それこそ違和感を発してしまうのではという気後れがあるのですが、、、そのでこぼこがもう少し、あるべき陰影につながることを願って。
今年の後半は、とくに畏れを抱いている。
大橋仁写真集『そこにすわろうとおもう』400ページ
志賀理江子写真集『螺旋海岸』200ページ、他に、展覧会カタログ(テキスト主体)
が、さまざまな意味でその畏れの根にあると思う。
渦のような。冷たいのか熱いのかわからない熱量のただ中にあるようなもので、自分はただ穴だとしても目は開いていたい。
いま本が完成しつつある岡田敦が、数ヶ月前に飲んでいたとき、「設立時の赤々が戻ってきたような、、、」と言っていたけれど、それはやはり違うだろう。私が変容するように赤々舎も変容してきたと思うけれども、実は意志をもって選べることは少ないのではないか。いま、「写真」が真っ直ぐに降って来て、自分がどうしようもなくそこに居るということは選べることではないのだと思う。それは受難でも祝福でもなく、ただ穴としてのことかもしれない。
明日17日は岡田敦とBギャラリーでトーク。『世界』をめぐって、いつものように少しの腹立たしさ(何に対して? 彼に対してではないのに、向き合うと噴き出す苛立ちがある)を発しながら、こよなく手探りで話せると思う。よくわからない信頼とも言える。聞きにきてください。