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昨年末から箱根の彫刻の森美術館にて開催中の澁谷征司写真展「LETTERS : 瞬きと旋律」は
皆さまご覧いただけましたか?

先にツイッターでご紹介しましたが、この展覧会について、展示会場の様子もあわせて
MSN産経フォトで取り上げていただきました。
URL:http://photo.sankei.jp.msn.com/info/data/2011/12/1230shibuya/

写真集『BIRTH』、『DANCE』に収められたシリーズや彫刻の森美術館や美ヶ原美術館を撮り下ろした新作、
未発表作品などあわせて100点以上を展示している今回の展覧会は
澁谷征司の写真の世界を最大限に体験していただける場になっていると思います。
3月3日には本人によるトークもあります。

また、会期中に弊社ホームページから写真集『DANCE』をご購入いただきますと、
彫刻の森美術館の入場券(2名入場可)も兼ねた展覧会DMをプレゼントいたします。
ご購入はこちらのページからどうぞ。


すっかり春になってしまう前に、ぜひ箱根へ足を伸ばしてみてください。


「LETTERS : 瞬きと旋律」

会期

12月30日(金) 〜 2012年3月4日(日)

会場

彫刻の森美術館 : マルチホール

〒250-0493 神奈川県足柄下郡箱根町二ノ平1121
TEL: 0460-82-1161
HP: http://www.hakone-oam.or.jp/

トークイベント

2012年3月3日(土) 13:30 〜 14:30
マルチホールにて

《主催》 彫刻の森美術館
《協力》日本通運株式会社東京ベイエリア支店 / 株式会社フレームマン

【プレスリリース】 Seiji shibuya_PressRelease.pdf



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©Seiji Shibuya 


『週刊金曜日』にて、写真集『感動』の齋藤陽道による写真と言葉の連載が始まりました。
ぜひご覧ください。

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あけましておめでとうございます。
本日より、2012年の営業を始めさせていただきます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、先月告知をさせていただきましたが
テレビ静岡で放映された番組「いのちの乳房 ~乳房再建に挑んだ女神たち~」が好評をいただき
再放送が決定されたそうです。
見逃した方はぜひこの機会にご覧になってください。



「いのちの乳房~乳房再建に挑んだ女神たち~」

日時

1月12日(火) 24時50分~ ※ 30分番組です。

番組

テレビ静岡「ねくすと」

【番組HP】 http://www.sut-tv.com/show/next/
※こちらのHPでは放映が12月となっておりますが、再放送は上記の日程で放映されます。ご注意ください。



美しく、愛らしく、そして凛々しく。乳がんを経験し、
乳房を再建した女性たちが、一冊の写真集をつくりました。

撮影したのは、写真家・荒木経惟。そうアラーキーです。
前立腺がんを経験した彼は、彼女たちの思いを受け止めました。

写真集を企画し、自らモデルになった真水美佳さんは、
「乳がんに罹り困っている人の支えになりたい」
「再建までが乳がんの標準治療になってほしい」と語ります。
写真集の表紙を飾る、熱海市在住の植田美津恵さんは、
「病気になり、写真集に挑むのは私の役目」と語ります。

乳房再建とは。乳がんと向き合った女神たち。
ありのままの姿を、ありのままの思いを贈ります。

(番組HPより)

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本日12月21日付けの産經新聞朝刊の文化面「After 3・11」のコーナーに、
写真集『夜明け』の山内悠が写真と文章を寄稿しました。


「境界線」に隠されたもの

師走に入り、僕は茨城から原発までの海岸線を北上していた。

冬の海は寒々しく、誰もいな い海岸に打ち寄せる波の音が、大きく響く。その傍らには瓦礫(がれき)が撤去されたあとに、家屋の基礎だけが残る更地が静かに広がっている。ふと目をやるとその中にぽつんと神社が残っていた。鳥居から先が無傷と言ってもいいくらいの状態だ。その後も北上を続け、同じように残った神社を幾つもみることができた。なぜ残ったのか、僕はそれを「偶然」という言葉で片付けてはいけないと感じた。聖界と俗界を、鳥居という境界線にハッキリと見せつけられたような気が したからだ。

やがて、北上を続けると警戒区域を示す立ち入り禁止の看板に達した。ここにも境界線があった。「境界線」、それはそのはざまを自覚することにより、世界の在り方を示す目印になる。

人は、なにかを何かと分け隔てることで認識しようとする。現にこの社会はすべてが境界線で成り立っているようにも感じられる。そしていま、震災によって新たな境界線がうまれた。現実の捉え方はいま、社会の中で、個人の意識の中で、ますます細分化しているのではないか。そして、行く先など見えないまま、時代は進んで行く。

そんなことを思いながら振り返ると、そこには海が広がっていた。実は新たな「境界線」をもたらしたのは海から押し寄せた境界線であったということに気付く。そして、母なる海は境界線など持たない、もっと大きな存在であるということにも。僕たちは細分化によってさまざまな世界を認識してきた。しかしその認識を覆す思考が、どこかの「境界線」に隠されているかもしれない。

(山内悠)

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© Yu Yamauchi

12月7日の産經新聞朝刊の「After 3・11」のコーナーに写真集『弾道学』の黒田光一さんが写真と文章を寄稿しました。

野暮のていたらくから

 夏の頃、写真について人前で話す機会の折、幾人かのやりとりの中で自分は「作品として成った写真が人に理解されそうになると、逃げたくなる」と話した。対してある人に「じゃあ、(そもそも)人になんて見せなければいいのに」と返された。無邪気だがこの人の言葉は至極真っ当であって、日常生活者の基本としてこれで十分いいのだと思う。

 また自分の写真は、人には重く暗く、しかめっ面に映るようなのだが、当人としては笑いも馬鹿(ばか)ばかしさも軽みも含み、というよりそんなもの勝手に混入していると思っている。多くの人にとって笑いや喜びや面白おかしいもの(悲しみや絶望も)というのは、あらかじめモデルが想定されているが、幻想としての大衆の視点に自らの眼玉も同化させて生活を営まなければ精神的に破綻してしまうので、やはり致し方ないのだ。多様な感情の存在など端(はな)から必要とされないまま、社会は足早に動いていく。

 ところで、理解する他者とは誰か。それは他人とは限らず己のことでもある。やはり自分にはその行為の見取り図を早々に展開できて"わかった"などと口にできるようなことをしたくないのだった。簡単に手に入る理解には疑念がつきまとう。そして社会が仕掛ける、理解を装った安い"手打ち"には抗(あらが)うべきだ。

 3・11以降のことを「津波、原発含め歴史的に見ても小さいこと」と言い切る声も直接聞いた。もちろんその真逆も。それぞれに感じる違和は、そのまま現在、この地点での自分の認識の程度を示す。

 世界の事象をほぼ取りこぼしながらあえて写真として規定してしまうことをおそれ、それでもまた形にしては言いよどみ、理解(自身への理解も)の訪れを信じないという、野暮(やぼ)のていたらくからしか動いていけないのだ。

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©Koichi Kuroda
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