先日の阿佐ヶ谷ロフトAでのイベント「高校生を撮る」について、
『写真画報』の編集長・沖本尚志さんによるレポートを掲載いたします。よろしければご一読ください。(小野)
小野啓×速水健朗×白岩玄×タカザワケンジ
小野啓写真集『NEW TEXT』
作って届けるためのプロジェクト応援イベント「高校生を撮る」
@阿佐ヶ谷ロフトA
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4/30に阿佐ヶ谷ロフト+Aで行われた「小野啓写真集『NEW TEXT』を作って届けるためのプロジェクト応援イベント"高校生を撮る"」は非常に示唆に富んだエキサイティングなイベントだった。写真と文学とサブカルをそれぞれ越境する異種格闘技的な内容で、話は休憩を挟んで3時間近くという異例の長時間に及んだ。同時にこの手の写真トークに一石を投じる、まさに事件というべき白熱のイベントだった。
まず、登場した面子が興味深い。パネラー(と呼ぶべきだろう)は4人。写真家の小野さん、編集者でありライターの速水健郎さん、小説家の白岩玄さん、そして写真評論・ライターのタカザワケンジさん。 写真畑のメンバーだけでなく、文学と批評分野から『野ブタ。をプロデュース』原作者の白岩さん、ケータイ小説やショッピングモールの評論など郊外若者文化に明るい速水さんが加わっていたのがポイント。いつものトークとは違うフレッシュな顔ぶれが揃っていた。
トークはまず速水さんが口火を切って、ケータイ小説や郊外の事例を引きながら、だれもがケータイやスマホで写真を撮ってSNSにアップするこの時代に写真家が写真を撮って発表する意味があるのか、という提言に3人が応える形で進んだ。速水さんが展開するネットを基軸にした集合知と、ネット時代における情報の氾濫と消費加速化の話はテンポが速く、写真サイドは何度も置いていかれそうになったが、その都度タカザワさんが『NEW TEXT』に戻し、注釈を加えるの繰り返しで進められた。小野さんと白岩さんは自作を語りつつ作家としてディテールを固め、対話の流れはふたりのライターが牽引していくという流れだった。
トークのクライマックス、速水さんから「いまの写真には評論が、写真論が決定的に欠如しているのではないか」という写真関係者にとっては痛い指摘があった。つまりは内側からの評論からしかなく外に向けてまったく開かれていないという批判であり、旧態依然のメンバーによる新鮮さを著しく欠いた古い体制のままのメディア=写真、という厳しい指摘。それに対するタカザワさんの現状解説は、写真関係者にとって溜飲が下がるものだったが、一連のやりとりは写真というメディアが文学やサブカルほか他のメディアから客観的にどう思われているのかがよく理解できた瞬間でもあった。
確かに写真批評は、他ジャンルのそれに比べると弱く、また創造的な評論もあまり多くない(勿論あるけど散発的な発表で目立っていないのが現状)。特に最近のサブカル分野での論客が元気なのとは真逆の状況。写真は歴史的な文脈があり、それを覚えて理解していくまでに時間がかかるという特性があるゆえサブカルのようには手軽に取り付けないという事情もあるし、出版の後退によって写真と作家は主たる外部発信メディアを失ったこと、そもそも論として経済的なパイが他のメディアと比べて(例えば映画やコミック)小さいということもある。しかし、速水さんの提議は「写真はメディアとしてつねに開かれているのに対し、メディアの中に形成された写真界は閉鎖的なうえに内向き」といういわば宿命的な問題を改めて浮上させ、同時に痛いところを外部から突かれた感がある。
その要因はこの20年、特にゼロ年代以降の写真論と写真批評が停滞し、あっても散発的で、批評家・編集者の世代交代が遅々として進まなかった事にある。思うに、写真家がつくる作品にはすでに主観客観問わず批評性が含まれているが(それは写真が持つ批評性とは別の文脈で)、作品の中から批評性を見つけ出して現実世界とリンクさせつつさらなる批評を行うという,他メディア(映画、ドラマ、漫画等)ではごく当たり前に行われている行為が,写真批評の現場ではあまり行われていない。
さらに,今日の写真論で決定的に欠けていると思われるのは、写真そのものに対するクリエイティブな批評だ。客観を基に主観を導き出す血が吹き出るが如く刺激的な批評である。それこそが,いま求められている写真批評であり写真論だと思う。そして,作家の批評性やそこから評論家が導き出した想像力に満ちた作品への批評を喧伝し、メディアへ変換するのが今日の編集者の役割なのだが、正直あまり機能していないと思われる。そこは自戒を込めつつ,20代や30代前半の若い世代の編集者にも奮闘ならびに共闘を期待したいところだ。